1666年(寛文6)備前藩主池田光政は、和気郡木谷村の北端延原の静寂な山ふところを見て、庶民のために一大道場建設を思い ついた。そして同8年この地に手習所を設け、10年から重臣津田永忠によって本格的な工事にとりかかり、地名も閑谷と改められた。 さらに1674年(延宝2)に木谷村の内高279石6斗5升8合を藩領外とし、閑谷学問所領として自立経営ができるように配慮し た。この意志は次の綱政にも引きつがれ、1700年(元禄13)には 学田21町7段1畝15歩、畑7町6段1畝15歩、学校林71町2段7畝を定めて、これを耕作するために63戸移住させている。 つぎに光政は、当時領内にあった手習所を廃止しこの学校に統合した。これは一見封建大名の絶対主義的統一性のあらわれのよ うに思われるが、それだけかえって光政がこの庶民教育をいかに 重要視したかがうかがえる。
さて、学校は江戸時代を通して、岡山城下にある藩学校と並んで藩の二大教育道場として明治維新まで続くが、その歴史と伝統は脈々と今日まで引きつがれている。すなわち、明治6年山田方谷による閑谷精舎、同17年から西薇山等による閑谷黌、同36年私立閑谷中学校を経て、県立閑谷中学校、岡山県立閑谷高等学校に発展し、
そして現在の和気閑谷高等学校及び、青少年教育センター閑谷学校と続くわけだから、まさに330余年の歴史をもっている。
